ハナチルサト

橘の香をなつかしみほととぎす花散る里をたづねてぞとふ

或る推しの話

まずはじめに…


今からお話しする方は現在の推しの方々と一切関係ありません。
また、このブログで普段名前を挙げている皆さんとは全く別のジャンルの方であることも、ここに明記しておきます。

 


今とても推し活が楽しい。

このブログを始めて3年目を迎えた。開設当時は想像もしていなかったけれど推しが増えた。そして最近また増えそうな予感がしてワクワクしている。推しのいる生活は楽しくて、こんな気持ちにさせてくれる推し達に心から感謝している。

SNSで同じオタクの皆さんと交流を持つのも楽しい。
好きなものを好きだと自分の心に素直になれることほど幸せなことはない。
コロナ禍で現場に行けない日々が続いているけれど「楽しい」と言い切れるのは直接会えずとも、さまざまな媒体でエンタメを届けてくれる推したちのおかげだ。

 

 

ずいぶん前のことだけれど「推し」がいた。
その人の作品に初めて触れたとき、身体に電流が走ったかのような衝撃を受けた。
夢中になってその人の作品を集めた。

あるイベントで初めて目の前に本人が現れた時、身体が震えて涙を堪えきれなかった。
長い列の待ち時間でもその涙は止まることなく、ついに自分の番がきても、やっぱり涙は止まらなかった。「推し」はそんな私に「ありがとう」と微笑みかけて握手をしてくれた。
その人の作品に支えられてきたのは私の方で「ありがとう」と言うのはこちらなのに、感極まって感謝の言葉を伝えることができなかった。

 

「推し」は、お花が好きな人だった。

生花は迷惑かと思ったけれど道中にその人に似合いそうな小さなブーケを見つけてしまって衝動的に買ってしまった。そのブーケをその人に向かっておずおずと差し出すと「きれいだね。ありがとう」と、また優しく微笑んでくれた。
作品にサインを入れてもらった。宛名入りのサイン。
名前を伝えたから「〇〇ちゃんありがとうね。またね」と名前を呼んで手を振ってくれた。
写真撮影可のイベントだったので、後ろに並んでいた見知らぬ一眼レフを持っていたお姉さんが「この子と写真を撮ってあげてくれませんか?」と言ってくれて、その人との写真を撮ってくれた。
一眼レフのお姉さんと、列に並んでいる間に仲良くなった同じ歳の女の子と連絡先を交換して写真を送ってもらったり、その人の作品の話をしたり今後のイベントの情報交換をしたり少しの間、交流が続いた記憶がある。今はすっかり途絶えてしまったけれど。


しばらくして「推し」は表舞台から姿を消した。
社会のルールから大きく逸脱したのだ。


どうしても許せなかった。
どんなに創作に行き詰まっても、筆舌に尽くしがたい何かがあったとしてもその一線を越えてほしくはなかった。報道ではその人の作品をこき下ろすコメンテーターもいて悔しかった。何も知らないくせに。でもそのコメンテーターより、そんな状況に自らを置いた「推し」が許せなかった。


ファン想いの人だったと思う。
あの頃より、ずっとずっと大人になった今の自分が振り返っても、やっぱりその人はとてもとてもファンを大切にしてくれていた思う、そう思わせてくれた。
繊細で優しい人。少し危ういところがあって、それは隠しようもなく作品に滲み出ていた。
好みの分かれる作品ではあった。
心ない言葉がネット上に現れることも1度や2度ではなかった。


捨てようとしたのだ。
その人の作品も、お姉さんに撮ってもらった写真も全部。
でもできなかった。
その人の作品にどれだけ支えられてきたか。
その人のおかげで今まで知らなかった世界を知ることができた。
自分が愛してきたものを切り捨てることが私にはどうしてもできなかったのだ。
作り手が罪を犯したとしても作品に罪はない、そう思い切れば楽になった。
だから今も時々その人の作品を手に取ってやっぱり好きだなとしみじみ眺める日だってある。


数か月前、本屋で何気なく手に取った書籍に、その人が取り上げられていた。随分時間はかかったけれど、少しずつ活動の場を取り戻しているらしい。

オフィシャルサイトを覗いてみた。
活動が軌道に乗っている様子が綴られていて、読んでいて嬉しくなった。
でも、もうその人の新しい作品を心待ちにする自分は戻ってこないことにも気づいて少し寂しかった。
それでも、たとえ推すことをやめて久しくても間違いなく今の私の中にはその人が魅せてくれた物たちが確かにあるのだ。

 


「推す」ってなんだろう。
時々考える。
表現として伝わりやすいから「推す」という言葉を使っているけれどその定義は人それぞれだ。

 

その人のことを知りたいと思う。

プライベートなんて一切興味はないけれど、その人が表現するもの、関わったもの、その人が好きだと公言するもの。今まで縁がなかった分野にさえも、その人が発信するなら目を向けてみようと思う。

私にとって「推す」とはそういうことだ。

 


いわゆる〝オタ垢〟を作るようになり世界はこんなに言葉の凶器で溢れているのかと愕然とした。

 

面白半分の、ただ人の神経を逆撫でするだけが目的の言葉。 
抗議と攻撃の境界性が曖昧で、推しを守るためという大義名分を掲げて振りかざされる尖った言葉。

 

推しの仕事を褒める言葉にさえも唐突に言葉の凶器が牙を剥く。

「お花畑」
ファンを蔑むときに判を押したように使われる言葉だ。

 

お花畑で何が悪いんだよ。

 

鼻で笑いながら、私は今日も推したちへの愛を綴る。

心ない言葉に推したちが絡めとられないように、言葉の花束を推したちに贈ろう。
これからもずっと贈り続けよう。